声
自分が人と接する上で友人だろうが恋人だろうが外せない条件がある。
声が気持ち悪いと感じないことだ。
高い低いはどっちでもいい。ブスかイケメンかは関係ない。優しいかクズかはちょっと気にするが、声が気持ち悪いと感じないこと、聞き続けられる声だなと感じられることが絶対条件だったりする。
もちろん、友人に対しても。
今、仲良くさせていただいている方々に対して 声に違和感を感じたことがない。むしろ、話しやすい人ばかりだなぁと感じているくらいだ。
そして彼・彼女らからは「落ち着く声」「眠くなる声」と言われる。
これに関してはよくわからない。
ぼくの声をきいていると落ち着く。というところまではわかる。
眠くなるってなんだ?誘眠作用でもあるのか?
(誘眠作用ってなんだ?)
電話をしていると眠くなり始める通話相手。そのまま寝落ちてしまう友人も ちらほら。
「どんな睡眠導入剤より睡眠導入に役立っていないか?」と、考えてしまうほど みんな眠っていく。
正直、少し寂しい。
電話をかける理由が『ひとりが嫌だから』とか、『雷が怖いから』とか、自分の欲求からくるものなのに、それがなにひとつ満たされず相手を満たすだけ満たして、自分は虚無感に苛まれる。
変な日常だ。
自分が安心できて、心安らぐ声の持ち主は いまのところ この世に一人だけだ。
彼は有名バンドマンでみんなに愛されている。
自分も他のファンたちと同じように彼の作る世界観に一喜一憂して、音楽を楽しんでいる。
ぼくが音楽を仕事にしたいと思ったのは、自分の方向性がみつかったのが彼の作る曲・バンドに出会えたからだ。
初めて彼らの曲を聴いた時の衝撃は今でも覚えている。
初めてのアルバムも、初めてのライブ参戦も、初めての遠征も、すべて覚えている。
彼らの音楽があったから いままで生きてこれたといっても過言ではないくらいには救われている。
その曲を歌う彼の声が一番おちつく。
大地をしっかりと踏みしめるような低く響く声。なのに歌うと空を飛んでいるかのような透き通った声。いまも、これからも、心の支えなんだろうなと痛感する。
彼の声を越える人と出会えた時、ぼくはようやく自分の好きなものを好きと胸を張って言える気がする。
何年かかるか分からないけれど、探し続けられたらなと思う。
今日はそんなところで。
ほなまた
hands to hands
今日は情報があっちこっち飛び交って、みんな上がったり下がったりしていたので、どんなことを書くかは考えずに 書いていこうと思う。
朝、約半年ぶりに大好きなバンドからの嬉しいお知らせが飛び込んできた。ちょうど8時だった。
しばらくファン同士でその話題で盛り上がり、Twitter の TL がお祭りのように賑わっていた時、耳を疑うニュースが飛び込んできた。お昼ご飯の時間帯だった。
一気に TL の空気が重くなり、みんな、情報を求めだした。しかし残念なことに情報が入り乱れていた。本物を見分けるのが困難だったと思う。
そしておやつ食べた後くらいに、好きなバンドのギターが久しぶりに Instagram のストリーを更新したという情報であふれかえった。再び平和な時間が訪れると思っていた。
日が傾いて 夕食の支度を始める頃、再び悲しいニュースが現れた。衝撃が走った。
今まで政治に関心のなかった人、その人に人生を救われた人、なんとなく知っていただけの人、いろんな人がその命の終わりを惜しんだ。
歴史は繰り返されるとは よく言ったものだが、ここまで詰め込まなくてもいいだろう。と、感じてしまった日になった。
平成から令和になり、新種のウイルスが流行り、政治が荒れ、メディアが荒れ、SNSにもその被害が見え隠れしてきたこのタイミングで。そんなこと、しなくたっていいだろう、神様よぉ。
確かに日本に住んでいる人たちは平和ボケしているかもしれない。悲しいニュースに免疫がないかもしれない。それでも、平和ボケしていることに気づかないまま過ごせるようにしてくれている方々がいることを忘れないでほしい。
選挙に行かなくたっていい。政治に関心がなくたっていい。
ただ、今まで平和に暮らせていた事実を喜び、分かち合い、これからの未来をどう生き抜くか、考えていこうよ。
これからの時代を担うのは、“今”を生きる若者たちだから。
これからも悲しいニュースが流れるかもしれない。むしろ、増えていくかもしれない。
毎日のように人が病気ではない理由で亡くなるニュースが飛び交うかもしれない。
そういう時にこそ、声を上げて手を取り合って、君ら お得意のSNSで ぼくらをひっぱっていってくれ。ぼくらはもう、そんなに力がないから。
間違いを犯してしまったときは ぼくら大人がなんとかする。
この世界を変えられる力を持っているのは若い世代の人々だ。
いままで声を上げていなかった分、存分に暴れてくれ。
君らが生きていたい世界に、住みたい国に、変えてくれ。
きっとその力は持っているから。
どこに向けての言葉か分からないけど、思うがままに書き落としてみた。
27の自分には遅いかもしれないが、若者のはしっくれとして、できることをやっていこうと思う。
今日はみんな、おいしいもの食べて、あったかいお風呂に入って、過ごしやすい温度にして、よく眠るんだよ。明日が今日になる前に、明日を今日にするために、今日をちゃんと生きて、今日をちゃんと終わらせよう。
いまはそんな感じで
ほなまた
限られた時間
一年に一度しか会えないってどのくらいつらいことなんだろう。
彦星と織姫の忍耐力なのか、本人たちにとっては一年なんて気が遠くなるほど長いものでもないのかとか、いろいろ考えてしまいます。
一説によると一年では事実上距離的に会えなくて、七年に一度がちょうど物理的に可能な距離だなんて聞いたこともあります。七夕の漢字がそのまま数字のほうで意味が使われそうな話ですよね。
そういえば今日(7/7)、Twitterで美女と野獣のベルとアダム王子が人間の姿で会えるのは七夕だけという情報をみかけました。本当に織姫と彦星みたいとそのツイートをされた方は書かれていましたが、本当にその通りだなと思いました。
それと同時にディズニーマジックの本気を見た気がしました。
上記のことを述べたうえで、現実世界で実際に一年に一回しか会えない人がいるかと考えてみたけれど、そんな人はいなくて。
自分にはむしろ、卒業以来 連絡をとっていない同級生、別れてしまった恋人たち、理由も覚えていないけれど疎遠になってしまった人たちなど、何年も会っていない知人・友人が多いなぁと思ってしまいました。
会えなくなるとか、別れが来るのは本当に突然。
まだこの年齢だからと思っていると、本当に突然会えなくなってしまうなんて割と本当に起こる。自分自身の友ではなくても、自分にも面識があった両親の知人とか、昔よくしてくれた祖父母の友人とか。
別れが来るのは本当に突然。
だからこそ、会える時にあって、伝えられるときに伝えておくといいと いつも考えている。
でも、人に対してだけじゃなく、時間にも ちゃんと伝えたい。
10代の頃の自分に「生きててくれてありがとう」と「一人にしてごめんね」をちゃんと伝えたい。
「あなたが居てくれたおかげで今、ちゃんと生きられているし、あなたが耐えてくれたおかげで今、とても楽しいし幸せだよ」と、伝えたい。
もしも抱きしめてあげられるのなら、17の時の自分を真っ先に抱きしめたい。
苦しかったよね、ごめんねって、抱きしめてあげたい。
織姫と彦星のように 会えることが分かっているのは案外しあわせなことかもしれないというお話でした。
ほなまた
ライブ供給が足りてません
足らないときはなにかで補う。
ライブに行きたくても行けない、そもそもやってないとかだったら、過去のライブDVDを全力で楽しんで観る。
例えば、本当に参戦するかのようにグッズ身に付けて、ガチの参戦スタイルで観る。
結構楽しいですよね、こういうの。
擬似体験?みたいな。面白いですよね。
始めに考え出した人に拍手。感謝。
机たてて柵を再現するのも ありですよね。
昔、SNSでやってる人いて「その手があったか!」と思ったのを覚えています。
だらだらとライブ話しましたが、なにが話したかったかな。たぶん、足らないものの話し。
実は約2年ほど恋人がおらず、恋愛から離れてる+片想いも まともにしていないな、と27の誕生日が近づいてきて思いまして。
でも足りてるんですよ、楽しいも 嬉しいも 哀しいも。ほどよく人生楽しめてるんです。
なんていうか、足らないものがあっても簡単に補えてしまう世の中なんだな、と。
思ったわけです。
恋人がいなければ、友人からもらえばいい。
友人がいなければ、映画や小説からもらえばいい。
補う場所なんて いくらでもあるな、と。
嘆いている、というよりは 少し嬉しいな、と感じています。ちゃんと「ひとりで生きている訳じゃない」と感じられる日々だから。
友人もいるし、大切な仲間もいる。
守るべき場所と大事な人たちがいる。
こんなに嬉しいこと、他にないですよ。
肩書きなんか関係ないなって思えるんです。
ぼくは幸せ者です。
そんな感じで、今日は。
ほなまた
恋人の必要性
お酒に煙草がなくても大丈夫なように、恋人がいなくても人生、なんとかなってしまうと思っているぼくです。
友人は必須だけど、恋人は必須じゃないのってなんか不思議ですよね。
ちゃんと自分をもったうえでする恋愛なら糧にはなると思うけど、そうじゃない恋愛は糧になんかならないし、むしろマイナス。
すがる先が見つかるだけ、甘えられる場所ができるだけ、恋人に対しての印象がこんな感じなぼくですが、やはり恋人はほしいもの。
絶対的に自分を信じてくれる人、最後には必ず傍にいてくれる人、そんな人がいれば人生はもうすこしキレイな顔をしてぼくを迎えてくれるのかな?なんて考えてしまいます。
でも、いま書いたことって友人でも事足りてしまうんですよ案外。
頼れるのも、信じられるのも、ちゃんと甘えられるのも、全部友人が担ってくれたりする。
そういう人たちのことをぼくは仲間と呼んでいます。大切で手放したくない人たちです。
お酒に煙草がなぜついてくるような、なくても全然大丈夫なんだけど、あった方がお酒がおいしくなる。そんな煙草のような存在。
ぼくは誰かにとって、そんな人になれたらなと思います、はい。
ほなまた
smoking
なにも予定がない日は寝るに限る。
そんな休日も悪くないと思うんです。
ただ、常にスイッチが OFF に近い状態だと0にするために労力を費やしてしまう。スイッチ OFF に近いのに 2 くらいしか余っていないものに1000くらいかけて0に持っていく。
これ、なかなかに大変で。
そういうとき、大抵は煙草を吸っている。
悪いものを吐き出すために悪いものを取り込む感覚で 思いっきり肺に入れて全て吐き出す。
深呼吸すらマトモにできなくなった時に本当に助けられた。法律で守られた害のあるもの煙草さん、今日もあなたからニコチンもらいますね。
いまはそんな感じで
ほなまた
必要なもの
生きてく上で必要なものってなんだろう。
お金や仕事、愛情、友情…
きっと他にも色々あると思う。
自分が1番必要だと思っていること、それは「繋がり」です。人しかり、心にも繋がりは必要だと考えております。
お金も仕事も生活をするために必要なことだと思うし、恋人や友達だっていた方がいいに決まってるって思ったりもする。
だけどそれらすべて「繋がり」がある前提の話なのかなと考えるときがある。
仕事だってそう。飲食店ならば食べに来てくれる人がいて初めて売上がでる。食べてもらう商品な食材を売ってくれる問屋がある。そしてお客さんに料理を運ぶ人、料理を作る人、彼らを雇った人がいる。
ひとつの料理が提供されることにどれだけの人の繋がりがあったかを知ることはむずかしい。まぁそもそも考えたりもしないのが当たり前だと思っている。
でも、目の前に見えていることだけじゃなくてそれらに隠れて見えないところにいる
もの・ことがあると考えるだけで 世界はちょっと優しい色になると思うのです。
全員が全員、全部が全部、そうなることはむずかしいし、なったとしても遥か先の話だから。きっとぼくらは生きていないから。
今を大切にして、表面だけの情報にとらわれずに、自分を生きられたらそれでいい。
そこにちょこっと心配りという名のスパイスをふりかけてくれたら嬉しいな。
ほんだら